1975年の高柳昌行 北里義之

第6章 フリージャズから高柳システムへ

 高柳のギターが梵鐘のように間歇的に鳴り響く「First Session 2」(漸次投射)のドラマチックな構成は,『アクシス』第2巻に収録された「Fragment - V」(集団投射)にも登場してくる。この2つの演奏を比較してみれば,1975年におけるフリージャズから高柳システムへの移行の内実がどんなものだったか,具体的に知ることができるだろう。一聴してただちに分かるのは,ここでの高柳が,『侵蝕』の演奏とは違って,メンバー全員を走らせるために,自分の位置をまったく動いていないということである。周囲の動きに無関心を装って,高柳は微動だにしない。この演奏で彼が狙いをつけているのは,明らかにジャズ的な共演者との即興的対話ではなく,即興演奏のなかに現われる音楽構造 = 時間構造そのものなのだ。そこにあるのは,自分が実現したいと思っている音楽に,どの道を行けばたどり着くことができるかを見通した認識者のまなざしと,見事なパフォーマンスの達成,そして透徹した楽曲の構成美などである。これらが生む即興演奏のダイナミズムは,『侵蝕』に数倍するだろう。

 これだけ静謐な雰囲気を備えているにも関わらず,この演奏が集団投射になっていることには,注意を払うべきかも知れない。『侵蝕』や『四月はもっとも残酷な月』の記述が正しいとすれば,似たような楽曲構造のうえに成立しているこの演奏は,本来「漸次投射」と表記されるべきものだ。おそらくはそうなのだと思う。しかしまた逆に,私個人としては,『アクシス』の表記の方が実は正しいのではないか,という可能性も捨て切れない。というのも,このアプローチに明確に現われている高柳システムの音楽構造 = 時間構造が,まさにエレキギターを使った集団投射からやってきたと思われるからなのである。構造を問題にする限り,聞こえの激しさ/静かさは関係ないだろう。集団投射の指示で始められたものが,ライヴ演奏の行きがかり上,漸次投射になってしまったり,またその逆だったりというアクシデントが,現場で頻繁に起こっていたとしたら,後進の私たちが頼りにすべきは,タイトルよりも具体的な演奏の構造なのではないだろうか。

 『アクシス』に収録された集団投射には,他に「Fragment - IV」(第1巻)と「Fragment - VI」(第2巻)がある。長らく AMM のメンバーだった英国のキース・ロウの演奏でよく知られるのが,ギターの弓奏という特殊奏法だ。それを駆使したのが「Fragment - IV」である。この集団投射では,エレクトリック・チェロを弓奏する井野信義が,お互いを映しあう鏡像のような演奏をしているのが興味深い。というのもまるでギターが2本あるように聴こえるからだ。それでも,1975年の NDU が,飯島晃とのツイン・ギターでアクション・ダイレクトへの道を開いた80年代の NDU にならないのは,凡庸なフリージャズから離脱しつつある『アクシス』の演奏が,即興演奏のスタティックな構造を浮き彫りにする方向に進んでいるからである。
 コンサートの最後に演奏された22分に及ぶ大曲「Fragment - IV」では,細分化されたサウンドが飛び交うなか,高柳はディストーションやワウワウといった基本的なエフェクターを使って,いつものようにいびつなエレクトロニクス音を鳴らし続けながら,ここでも鷹揚とした迫らぬ態度で,周囲からかけ離れた自在なサウンド遊泳を楽しんでいる。訥々と語るような特徴のあるフレージング感覚を,そのまま移したようなサウンドの不均衡な並びは,まるで大小様々な種類の石を,ごつごつと並べていったかのようだ。この集団投射においても,最後でクライマックスを作るべく演奏を少し持ちあげはするものの,高柳のギターは『侵蝕』の集団投射のようにソロの前面に踊り出てくることがない。やはり中心をなすのは,音楽構造に照準をあてた演奏と解釈していいだろう。

 こうして『侵蝕』から『アクシス』へ,高柳の投射音楽を構成する音楽的要素はほとんど変わっていないにも関わらず,即興演奏で実現された世界は,変貌と呼びたくなるほど透徹度を増すことになった。不断の即興実践の果て,動き回る標的を鷲掴みにした高柳の高笑いが,聞こえてくるようではないか。



 1 2 3 4 5 6 7 >Next

 Copyright ©2007 JINYA DISC All Right Reserved.