1975年の高柳昌行 北里義之

第5章 投射音楽とはなにか?

 高柳を中心に,1975年における投射音楽の実際をたどってみよう。筆者はかつて,アングリー・ウェイヴス『断層 dislocation』(1983年12月録音/Jinya Disc)の音盤評(※6)において,彼の即興スタイルへの接近を試みたことがある。そこで分析した特徴は,数年をさかのぼる1975年の高柳にも妥当すると思われるので,改めて要点を引用してみることにする。

 「山崎弘が叩き出す,止まることを知らない激しい音の奔流のなかで,ファットな音塊と化したコードを放出したり,まるで点描画を至近距離から見せるように,一音一音,ばらばらにギター・フレーズを置いていく高柳の演奏は,さらに不思議な感覚を与える。まるで温泉にでもつかっているかのように心身をリラックスさせながら,訥弁の,会話するような固有のリズムで,集団即興のなかを自在に泳ぎ回る高柳。フリージャズというより,それはどこか老子的,荘子的な身体術を思わせる。あるいは世外を自在に生きるためのサウンド・テクネー。」

 「即興演奏を,周囲の流れから決定しないこと,また既成のフレーズ単位に決定しないこと,演奏をいったんミクロな単音レヴェルに解体したうえで,そこで働いている衝動的な決定要因を見い出し,その要因に忠実に従って発語を始めること。以上は仮説に過ぎないのだが,即興へのそうした言語的アプローチが,彼の学究肌を反映したものであり,いわゆるフリージャズ演奏と彼のギター演奏を分かつ最大のものだったのではないだろうか。」

 これらは,フリージャズを参照するだけでは,なかなかその秘密を解くことができない高柳の即興演奏が,いったいどこからやってきたのかを探究しようとする試みのなかの記述である。この2種の身体トレーニング,すなわちサウンドの遊泳術と言語学習は,前者がフリーフォームの演奏において,また後者がモダンジャズの演奏において,最大限の力を発揮していた。あるいはおそらく,サウンドの切れ目のない持続がキーポイントになる点を考慮に入れれば,前者がエレクトリック・ギターの演奏から,後者がアコースティック・ギターの演奏から生まれたものだったと断言してもいいだろう。それでもなお,各々はモダンとフリーに厳格に対応した身体技法というのではなく,その時々のコミュニケーション環境のなかで,共演ミュージシャンの資質や演奏の展開に従い,自然に選択され発露されたものに違いあるまい。改めて言うまでもなく,ギター・ソロの名盤『ロンリー・ウーマン』の演奏は,この両者の,絶妙のバランス感覚の上に成立したものである。

 1975年のアルバムのなかでは,『アクシス』の漸次投射で,例外的にガット・ギターを使用し,メロディーも排除しない美しいフリー・インプロヴィゼーションを演奏している以外は,漸次,集団に関わりなく,すべてエレクトリック・ギターによる音色的アプローチをベースにした演奏となっている。フリージャズ色を強く残した『侵蝕』は,即興語法による対話が乱れ飛ぶ「First Session 1」(漸次投射)と,高柳のギターが梵鐘のように間歇的に鳴り響く演奏と,サウンドの遊泳術を織り交ぜて展開するドラマチックな「First Session 2」(漸次投射),そしてパルス化するリズムに乗って加速度を増したフレーズの応酬が続く「Second Session」(集団投射)の3曲から構成されている。
 しかし,フリージャズになっている最後のセッションでも,高柳は途中からフレーズの応酬をストップし,エレクトロニクス・サウンドが奇妙に蠢き続ける特異な演奏で,周囲の奔流と対極を形作るような,とてもゆったりとしたヴァイブレーションを生み出している。これは高柳のフリーフォーム演奏で頻繁に聴くことのできるアプローチで,私たちが「老子的,荘子的な身体術を連想させるサウンドの遊泳術」と試みに呼んでいるものである。激しい流れのなかを,複数の共演者の動きを受け止めながら,自在に泳ぎ回る身体技法としての即興演奏。それは日本の古式泳法(※7)を思わせるものである。

 フリージャズを聴き慣れている音楽ファンなら,サウンドの大河がすべてを押し流すような激しい集団即興のなかに,(おそらくはぶつかりあう波長が干渉しあってだろう)奇妙にゆったりとしたヴァイブレーションが生まれてくるのを,経験的に知っていると思う。高柳の演奏は,このゆったりとしたヴァイブレーションを,いわば意図的に表面化させるものであり,フレーズを細分化する集団投射が一本調子になることを防ぐだけでなく,サウンドの高速度の流れと低速度の流れが,ひとつの場に同時に現われるところに,宇宙的なホーリネスを感じ取らせることにつながっている。アルバート・アイラー(ts)のミクロに震えるサックスのヴァイブレーションと,カリプソに通じる大らかなメロディーの相反性を思い出していただきたい。この対極の時間の生成が,素朴なフリージャズの音楽構造や演奏の展開を,一挙に複雑なものへと変貌させてしまう。

 ただ,演奏の全体が,ジャズ的な対話のうえに成立している『侵蝕』にあって,井野信義のアルコによるドローン演奏が,高柳のエレクトロニクス・ワークと重複する集団投射では,おそらくそこに冗長性が生まれるのを嫌ってだろう,高柳は次第に鋭角的なサウンドで演奏の前面に飛び出してくる。あるいはこれは,高柳のギターを前面に押し出すために,井野がソロの背景をなすドローン演奏をあえて選んだものと,逆の立場から考えることもできるだろう。いずれにせよ,そのために本盤における高柳固有の遊泳術は,新たな時間構造の構成に関わるというより,ソロのバックを演奏するジャズの伝統的なスタイルに聴こえてしまうという恨みを持っているのではないだろうか。



【註】
(※6)mixi 上での音盤評「高柳昌行 Angry Waves 発掘リリース」からの自己引用。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=45996777&owner_id=1141377
(※7)古式泳法 「通常の泳ぎ方のみではなく,甲冑を着用しての着衣水泳というべき泳法や,水中での格闘技術や立ち泳ぎでの射撃などの武術としての水中での戦闘技術も含む」(Wikipedia)泳法のこと。


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