1975年の高柳昌行 北里義之

第4章 1975年の高柳昌行

 こうした日本音楽の特殊事情を背景に,1975年の NDU は,フリージャズを生んだ合衆国のように,「日本のジャズ」と呼べるような内部に相当する場所を持たないまま,集団投射,漸次投射を,すべての即興パターンを可能にする方法論とする高柳固有の音楽システムの下で,内破によって即興演奏を成立させるのではなく,まさに「もう一つの自転するもの」として,あるいは古代においては月や太陽が隠れること自体が神の怒りをあらわしていた天体の「侵蝕」として,私たちの前に出現した。試みとしての日本ジャズ史から,無限の距離を隔てた彼方に光り輝くこの小宇宙は,まさにみずから回転し,みずから満ち欠けをくりかえす,自足せる小宇宙なのである。
 この孤独な天体を支えているのは,オーネット・コールマン(as)のハーモロディックのようなもの,あるいは新しい姜泰煥(as)トリオが聴かせる小宇宙のようなものだ。すなわち,副島輝人が「彼等四人のミュージシャンにとって,演奏とは,互いの血をすすり合うときである。それはまた,聴衆に連帯を呼びかける,密やかな血盟の儀式ではあるまいか」(※5)と書くような,内破する場を持たない人々の秘密結社的な集まりのなかで交わされた,いつ果てるとも知れないオーラルな即興的対話から生まれた,突然変異の音楽なのである。彼等の音楽が,一般化することのできない異形なるものの出現として,固有名詞を冠したシステムの名前で呼ばれる理由は,おそらくここにあるだろう。
 1975年の高柳昌行。その軌跡を記した『侵蝕』『四月はもっとも残酷な月』『アクシス もう一つの自転するもの』において,高柳の演奏スタイルと NDU による集団即興は,アルバム毎に,過去に実践したアプローチを反復したり変化させたりしているが,現在聴くことのできるこれらのアルバム群の範囲で言えば,大きく言って,フリージャズから高柳システムへの移行を指摘できるのではないかと思う。集団投射,漸次投射のように,大雑把に方向性を決めるだけの方法論は,実際の演奏内容によって,それが内包する概念も変化していってしまう。なかには途中で曲想が変化するものもあり,タイトルを裏切って,演奏だけでは集団投射か漸次投射か判断のつかないものさえある。こうした辻褄の合わなさは,生成する理論のフレキシビリティによるものであり,現場にすべてがある音楽の特徴と言えるが,概念操作に慣れていない聴き手からはなかなか理解してもらえない。オーネットのハーモロディックが,多くの音楽ファンから,いまもって彼の集団即興を説明する「原理」と誤解されているのと同じことである。


【註】
(※5)副島輝人『アクシス』第一巻ライナー文。


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